スペシャル対談
荒廃しかけた町に人を呼び込み、野毛の名を全国に知らしめた大道芸フェスティバル。それは、この町の引力に惹きつけられた青年たちが、ボランティアで無から作り上げたイベントだった。
30年目にもあたる第40回は、8年前に引退した初代メンバー3人を再び迎えている。過去と現在が隣人のように織り重なる、いかにも野毛らしい選択だ。しかし懐古主義とは違う。
孔子は「不惑(四十にして惑わず)」という言葉を残した。それを体現するかのように、伝説的な歴史の上にさらなる未来への原点を見据える男たち。現在の野毛大道芸プロデューサー・福田豊氏、初代プロデューサー・IKUO三橋氏、イベントのポスターや写真を手がける美術家・森直実氏にお話を伺った。
(文・撮影/Rumi)
あの頃、僕らが使えるものは「道」しかなかった
── まずは、立ち上げ当時の話を教えてください。
あの頃の野毛は、闇市として栄えた戦後の時代が終わって、しがない飲んべえの町でね。廃線や京浜東北線の延長があったり三菱造船所もどっかいっちゃったりで、人の流れも落ち込む一方だった。
この町はもう寂れきってて、失うものがないから何でもやっちゃおうという。その気分がすごくあったよね。
広場もなかったし、横浜にぎわい座もなかった。それで、やるとなったら道しかねぇだろと。そうしたら道を使うのは道路交通法で禁じられてるっていうんで3年ぐらい警察に押しかけてお願いしつづけて…。
当時の課長の名前も覚えてるよ。あっはっは。
でも3年目くらいで「そこまでお前らが本気で町おこしを頑張るんだったらまあいいよ」って、ようやく許可がおりてね。
そこから野毛の気質が「懲りない・めげない・あきらめない」になった。
── そもそも、なぜ「大道芸」だったんでしょうか?
野毛大道芸は最初から独立してたわけじゃなかったんだよね。はじめは1985年に露店画廊と大道芸をやったんだ。
そうそうそう。辻音楽(ストリート・ミュージック)もあったよ。
だけど、なぜか絵画芸術とかではなくてIKUOさんのやってる大道芸に人が集まった。
こっちはヘルシー松田と女房と3人だけだったのにね。
大道芸には300人くらい集まったんだよ。食いつきが違った。僕はIKUOちゃんの言葉がいまだに印象に残ってるんだけど、「まるで暗幕をつけてスポットを当てた劇場みたいだ。野毛って町はおかしな町じゃないか」って。それで、どうもこの町には大道芸が合ってるんじゃないかと思って、独立させたのが翌年の1986年。
── この企画自体はどうやって生まれたんですか?
「波の上」って飲み屋での会話が始まりだね。福田さんはそこに毎日いて、ときどき「餃子作んなきゃいけない」って自分の店(萬里/ばんり)に帰るんだけどまた戻ってきて、ほとんど住んでるみたいだった。で、飲んでるときの話ってデカいし実現しないことが多いじゃない。ところがたまたまフランスから帰ってきたIKUOさんがいたから実現しちゃったんだよね。
もともとプロとしてそういう仕事はやってたんだけど、まあこの町に住んだから無償で関わって。忘れちゃいけないのは、ここにもう一人、パパジョン(故・島村秀二さん)がいたんだよ。ふふふふ、亡霊のようにね。
島村さんは自分のお店もあるのに「野毛文化を育てる会」という活動もやっていて、当時は寄席をやったりお囃子を流したり、本当に一生懸命だったよなぁ。
日本の大道芸の価値を変え、実験的な場としても活用された野毛大道芸
実はね、今の野毛大道芸の原型を作って定着させたのは、初代プロデューサーとして第1回から第8回まで4年間ずっと仕切っていたのIKUOさんの功績なんだよ。
日本ではそれまで、大道芸そのものにお金を出すことが習慣化されていなかった。物売りが客寄せ的に使うことはあったけど、芸にお金を払ってもらえるのは門付(人家の門前に立って演奏などの芸を行い金品を受けとる芸)みたいな人たちで。フランスやヨーロッパの大道芸文化を日本に持ち込んだのはIKUOさんが初めてなんだよね。
ふふふ。80年の秋ぐらいだったかな。
だから最初は「投げ銭」っていうと、本当に金投げるやつがいたんだ。危ないだろ?
知らない芸人に、小銭やお札を出すってこと自体をお客さんが躊躇していた時期だったよね。こんなことやっていいのかなって。
だから終わるとね、僕らがばーっと入れに行ったりするの。
それが、だいたい丸3年ぐらいかかったね。
── 道路交通法を突破するのに3年、投げ銭の習慣を定着させるのに3年ですか!
投げ銭については、凡平(故・早野凡平)さんの功績が大きい。終わると必ず「今そこで帰ると後ろめたいでしょ!」って言うから帰れないんだよ(笑)。みんな後ろ向けないの。それで「お札の人は高々とみんなに見えるように入れて、小銭の人はそっと帽子の中に手を入れて、音がしないように手を離してくれ」って、凡平さんはみんなを笑わせながらやったから、それはもう。
笑いにしながら本質的なことをきちっと言ってるから、見てていやらしくないんだよね。そこまで含めて「芸」だった。
最近だとお金を稼ぎたい気持ちが先に立ってしまう大道芸人さんもいるけど、凡平さんは自分が楽しんじゃってるんだよ。だから周りを見る余裕があった。
楽しんでたね。僕も凡平さんも浅草松竹演芸場にお世話になってたんだけど、あそこは「ネタおろし」といって新作の初披露ができる場だった。そこで感触を掴んでから全国のキャバレー廻りなんかをやるんだけど、ところが凡平さんが出てる間に演芸場がなくなって。野毛はネタおろしの場としても凄く良いって言ってたよ。
こっちもテレビじゃ見れない凡平さんの汗や、目をキョロキョロっとさせる様子や、顔のしわまで見れたんだ。最高の芸人さんの最高の芸が見れる場だった。
凡平さんはこの町の飲み屋のおやじも好きだったよね。だから全然帰らずにずっといたりしてさ。ただ金が欲しくて来てるわけじゃなくて、この町のあったかさを感じてたんだな。
初代メンバーが再び集結した第40回のテーマ「不惑」とは
── 今回は「不惑」というテーマを掲げていらっしゃいますね。
これは孔子の言葉で「四十にして惑わず」。つまり「狭い枠にとらわれず、自由に物事を見れるようになる」という意味なんだ。
── なるほど。では、この40回を振り返ってみていかがでしょう?
忘れろ!!
(笑)。嬉しかったことがあるよ。2014年秋のイベントで、IKUOちゃんの息子さんが「ケルトミュージックで野毛大道芸に出たい」って参加してくれたの。それでね、野毛はもう世代交代の時期が来てるんだなって。
300人がジャズ喫茶「ちぐさ」の駐車場に集まったあの時、息子はまだ2~3歳で、駐車場の砂利で遊んでたんだよな。
それで息子さん、実際に出てみたら意外と面白いっていうんで、また第40回にも出演したいって連絡くれたんだよね。あッ…、ちょっと今ね、すぐ餃子を作らないといけないから店(厨房)に帰るわ。
え!? ええっ!? あっはっはっはっはっはあふぁえおえいえっはっは!(爆笑)
── いってらっしゃいませ(笑)。いま息子さんのお話が出ましたが、出演者は世代交代の流れにあるんですか?
最初から出てる人たちはほとんど死んじゃったね。サイクル松林でしょ、園部志郎でしょ、凡平でしょ、元次郎でしょ… 10人は超えますよ。ほとんど死んでますよ。俺たちだけだよ、生きてるの(笑)。
── そんな中で迎えた30年目、第40回目の見どころを教えてください。
今の若い人たちはみんな技を一生懸命磨いていて、黎明期より技術水準が高いですね。一方、技というのは手段にすぎなくて、根本的には心が豊かになるようなものを出していけたらいいなって。難しい技をこなせれば良いのではなく、その人の持ち味、人間性、魅力を感じられるような人を選ぶように心がけています。そういう意味で、初期からの出演者さんもいますよ。あ、これ福田さんのセリフとして載せといてくれる? いま餃子作ってるから(笑)。
上手いことやったね、「餃子で中座」って。
── (笑)。芸の原点を見据えつつ、不惑の精神で新しい時代を迎える。そんなタイミングで立ち上げメンバーの皆さんが8年ぶりに集結されたのは不思議な縁ですね。
今回は福田さんが8年ぶりに復帰したから声をかけてもらったんだけど、正直嫌だなぁと思ったよ。最初はね。
ふふふ。
もちろん40回まで続けていただいたことには心から感謝しているんだけど、昨年、経理上の不祥事でメンバーが辞めた直後だから気が重かった。自分が20年間ボランティアでやってたことも疑われるんじゃないかって。ただね、この町で飲んでたら不思議な流れの中に入っちゃったんだよね。野毛で飲み始めて約50年になるんだけど「あ、俺の人生の中で野毛大道芸の存在は大きかったんだな。最後にお手伝いして終わればいいかな」って心境になった。
── では、またすぐに次の世代へ渡していくお考えですか?
本当は、僕らあたりのやつが「昔知ってますから」みたいな感じでいつまでもいちゃ駄目。今、この町でも35歳から45歳ぐらいの人が台頭しはじめているから、彼らが30年後に生き残れる町づくり、あるいはイベントでないと意味がない。
次を育てなきゃいけないよね。
ただ、そういう現象はもう起きてる。たとえば、ハロウィーンなんて川崎あたりが凄いけど、この町でも細々と2人でやってた若者が、昨年は146店舗加盟させちゃってさ。ナントカ組合とかそういう組織じゃないんですよ。地道に人間関係で広げていって146軒束ねたってこれはたいしたもんだよ。ああいうやつを大事にしないと。
みんなもう息子の世代だよね。それから、野毛はそろそろ方向性をはっきりさせないといけない時期にきてる。規模的にも時代的にもね。大道芸に縛られなくてもいいんだ。絶対言われるの。何やったって。でも5年10年経つとね、あれは凄かったねってなるからさ。昔、野毛大道芸を引退して九州へ行って、出身地を訊かれたから答えたら「ああ、大道芸の!」って言われて俺が驚いたよ。
そういう次の世代をかわいがって育てるのが年寄りの役目だよ。
強烈な若いリーダーか、何かをやってみようと思うやつが3人いるといいね。
でも不思議と人徳がある若者っているんだよね、野毛には。僕らも年だから次の世代に渡したいし、まあ30年がちょうどいいとこかな。
えっ? あと30年もやるつもりかよ!
そうじゃねえよ!
時代を動かす力と人間味が年輪を重ねる「場末美」の町、野毛の未来
福田さん、帰ってこないなあ。
電話も出ないんだよ。首から下げてるあれ、実はペースメーカーなんじゃない(笑)。
(ここで福田さん再登場)
あれ、電池がなかったな。充電はしてるんだけど。
一同 (笑)。
── では、あらためてお伺いします。今後の展望などをお聞かせください。
本当は年に1回、2回だけじゃなくて、一年中大道芸をやれる町にしたいね。一年中通行止め。夜ね。そうしたら芸人がいつでもできるんだよね。
最初の頃から言ってたね。実際には飲食街だから通行止めはなかなか難しいけど、IKUOさんが最近、本当に芸を一年中見れるお店をこの町に作ったのはけっこうエポックメイキングな出来事だった。
口であーだこーだ言ってもさ、自分が動いてみせないと信ぴょう性ないじゃない。それで私は「うっふ」という店をね、もう先が短いから作ったんですよ。店の扉は、ベニー・グッドマンの家の玄関。25年前から持ってて、ずーっと倉庫に置いてあったの。
えっ、そうなの? それ野毛のやつみんな知らないよ? だって、ちぐさにジャズ聴きに来ててもあのドア見にくる人いないじゃん!
ふふふ。この際、大暴れしちゃおうかなと。昔やったような勢いでわーっとね。そうしないと町なんて動かないし波風立たないし、日本のモデルになるような町なんてできない。そういうモデルになるくらいの何かを立ち上げて作ったほうが面白いよね。
切り札を切ってきたんですね、この町に。
まだ何枚も切れる。俺ね、よそでは全然やりたくなかった。だけど物件がないから、それで25年待ってたんだ。
都市論から見ても、野毛くらい変化がない町はないんだよな。経済発展すると町は10年から15年で入れ替わるんだけど、赤黒すれすれでやってる野毛には織り重なってきた人間味や「場末美」があって、IKUOちゃんはそれを一番分かってるんだよね。
── 待つ人間と、待たれる町。どちらにとっても25年って凄いですね。
うん。あとはね、大道芸のパンフレットに死んだ芸人の名前を載せたい。
いいね。森さんが撮ったでかい写真に黒枠つけて、通りの向こうまで電柱とかにだーっと貼りたいね。絶対やるべき。野毛の誇りだよね。 あれだけの人間たちがここに来て、芸をやったってことが。
それをちゃんと伝説にしなきゃ。
その中に◯◯さんも入れといてよ。
森 死んでないだろ!
あっはっは。冗談で少しこうさぁ…。
人権問題だよ、それ。
そのぐらいぶっ飛ばないと野毛っぽくないよ。
(笑)。それじゃあそろそろ撮影に移りますか。場所はこのまま萬里で。
ふふふ。俺も萬里休すだな。
後悔しても反省しない。これって野毛の人たちと芸人の共通点だよね。
福田 豊 Yutaka Fukuda
野毛大道芸プロデューサー
1941年、中華人民共和国生まれ、横浜市出身。成蹊大学卒業後、電通PRセンター入社。退社後は「料理は最良、心は不良」をモットーに家業の中華料理店「萬里」を営む。野毛大道芸の仕掛人のひとりとして活躍している。趣味は貯金と読書。特技は嘘をつくこと。
森 直実 Naomi Mori
野毛大道芸アートディレクター
1948年生まれ、横浜育ち。美術家、元美術科教師。1986~2005年野毛大道芸アートディレクターをつとめ、野毛大道芸ポスターの写真、イラストを手掛けた。2014年に野毛大道芸アートディレクター復帰。2014年~東京都ヘブン・アーチスト審査員。
IKUO三橋 Ikuo Mitsuhashi
野毛大道芸初代プロデューサー
1971年渡仏。パリ国立サーカス学校でマイム科講師をつとめる。81年に帰国、野毛大道芸初代プロデューサーとして、計8回の野毛大道芸をプロデュースし、野毛大道芸の基礎を作った。現在は野毛でサーカス用品販売やイベントプロデュースを行う「むごん劇かんぱにぃ」、ベルギービール専門店「le Temps perdu」を経営。昨年12月にはヨーロッパアンティーク自動楽器の博物館&ライブ・カフェバー「うっふ」をオープンさせた。