第六回 ヘルシー松田

30周年を迎える野毛大道芸。初回から野毛大道芸の歩みを見てきた森直実(野毛大道芸アートディレクター・アドバイザー)が語るディープな芸人列伝。

 

ヘルシー松田

 

ヘルシー松田さんと出会って、もう30年が経つのかと思うと、私は考え深いものがあります。

 

1986年に「野毛大道芸ふぇすてぃばる」(現「野毛大道芸」が始まったが、その前年の1985年に「露天画廊と大道芸」というイベントが野毛で開催されている。露天画廊の方はさっぱり人気がなかった。それで翌年は大道芸だけの催しにしたのが今日まで続く「野毛大道芸」のルーツである。この企画は、「野毛文化を考える会」と、野毛の中華「萬里」の福田豊氏による立案である。フェスティバルと名乗るのにはあまりにも小規模な催しなので、初代プロデューサー「イクオ三橋」氏が「ふぇすてぃばる」と命名したのだった。

 

このイベントは、二代目のプロデューサー「橋本隆雄」氏に引き継がれ、国際的にも「野毛」を固有名詞化しようと考え「野毛大道芸」としたのだった。この狙いは正しく、「野毛大道芸」は固有名詞化した。

 

この準備とも言える、1985年「露天画廊と大道芸」の時からヘルシー松田さんは、野毛の大道芸に参加している重鎮である。

 

「ヘルシー松田」さんは、大道芸も演じるけれども、舞台では更に輝きを増す。日本よりもドイツ等での公演で、絶大な人気がある。パントマイムは、どちらかというとシリアスで芸術的な匂いが強い。ところが「ヘルシー松田」さんのマイムは、とてもコミカルである。コミカルである事が、却って海外の目の高い観客を驚かせたのではなかろうか。一度観た事のある観客は「ヘルシー松田」さんがステージに出てきただけで何もマイムなどしないうちから笑ってしまう。「コミカル・マイム」と言う用語を作ったのも「ヘルシー松田」さん自身である。

 

岐阜の長良川沿いの町で生まれ育った「ヘルシー松田」さんが、何故パントマイムの世界に入ったのか興味深い。松田さんは、小学生時分は内向的で学校嫌いでもあったようだ。4年生の時、担任の山崎先生がモノマネとかマジックを見せたようで、それが強く印象に残ったという。5年生の時に、担任の先生に勧められるままに、松田さんは皆んなの前で落語をやって見せた。落語は予想外に受けたが、この事が内向的だった松田少年の心に灯をともしたようだ。

 

高校生では演劇部に所属し、役者になりたいと思っていたそうだ。1970年初頭に上京し、中目黒界隈に住んだ。たまたま新聞のチラシを見て、演劇団に応募した。処がそこは、団への入所金をせしめる詐欺まがいの演劇団であったようだ。

 

その頃、腰を悪くして一時岐阜に里帰りし、病院で治療を受けた。病院を抜け出して映画を見た。チャップリンの映画を観てマイムの力にショックを受けた。チャップリンの自伝を読み、ますますパントマイムに傾斜していく。再上京後、佐々木博康主幹「日本マイム研究所」に入る。ここで、本格的にパントマイムを学んだ。「日本マイム研究所」で学んだ人の中に、大道芸でも馴染みの深い「イクオ三橋」「雪竹太郎」「ふくろこうじ」さん達がある。

 

私は、30年程彼のコミカルなパントマイムを観てきた事になるが、今も飽きないでいる。松田さんのパントマイム、いつの間にか余分な動きをしなくなったような気がする。誰でも若い時は、ウケ狙いで頑張りすぎる傾向がある。松田さんは既にその力みは消え、表現に無駄が無くなっている。洒脱な領域に入ったのではなかろうか。今後がますます楽しみである。

 

実は「ヘルシー松田」さんの波乱万丈な生き方は、非常に面白いのだが、差し障りがありすぎて後に残ってしまう文章では、到底書けないのが残念だ。

 

シリアスで芸術的センスが強いパントマイムの世界で、ヘルシー松田さんが、コミカルな方向に進んだのは、何となく分かるような気がする。しかし、なぜなのかは聞いたことがない。今度お会いした時に、その辺りを伺ってみたいと思っている。

 

初回から出演している「ヘルシー松田」さんが、4月23•24日に、30周年記念「野毛大道芸」に出演します。理屈のいらない楽しいパントマイムを、どうか楽しんでご覧ください。また、奇しくも「日本マイム研究所」で学んだ「雪竹太郎」「ふくろこうじ」さんのお二人も30周年「野毛大道芸」に出演します。どうか、お見逃しなく。
(写真/文 森 直実)

野毛大道芸

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